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日本への渡来
 お茶は唐の国に派遣された「遣唐使」によって我が国にもたらされたといわれています。『日本後記』には、永忠という留学僧が嵯峨天皇(786年〜842年)に、煎じたお茶を献上したことが書かれており、これが正式に書かれた書物の中で最も古い記録です。お茶を日本に持ち帰った留学僧は、ほかに最澄、空海、円仁などがあげられます。

抹茶は、鎌倉時代の臨済宗の僧、栄西禅師(1141年〜1215年)によって、宋の国から日本にもたらされたいわれています。
1191年(建久2年)にお茶の種子を持ち帰り、その喫茶法を日本に伝えたのです。1214年(建保2年)には、栄西によってお茶の効能や製法について詳しく記した『喫茶養生記』が完成し、のちの茶人に大きな影響を与えました。
 栄西は、持ち帰った茶の種子を九州の脊振山「佐賀県と福岡県の県境」にまきました。そして1207年(承元元年)、その茶からとれた種子を華厳宗の僧、明恵上人(1173年〜1232年)におくりました。明恵は送られた種子をまいて栂尾(京都府)で茶の栽培をはじめ、そこから茶の栽培が全国へと広まりました。

庶民への広がり
 一服一銭のお茶。室町時代、庶民が口にするようになったお茶は、武士や僧侶の間で飲まれていた抹茶ではなく、煎茶のあまり上等でないものであったとされています。たくさんの人でにぎわう寺社仏閣の門前に店を出し、一服一銭という値段でお茶を飲ませてくれる「立売茶」が、庶民の憩いの場となっていたようです。
『東大寺百号文書』によれば、室町時代の1403年(応永10年)にはすでに、このような店が出ていたようです。

江戸時代に栄えた茶屋
 江戸時代になると、お茶を飲む習慣は庶民の間にさらに浸透していきました。19世紀中ごろには、いまでも高級茶として知られる玉露が開発され、お茶に関する関心はますます高くなりました。江戸の寺社仏閣の門前には茶屋が立ち並び、道行く人々にお茶をふるまっていました。人気の看板娘がいる店もあり、その姿を一目見ようと、たくさんの人が押し寄せました。

ちゃぶ台と急須
 「ちゃぶ台」という言葉は、もう死語に近いのでしょうか?昔、日本のどこの家庭でも使われていた丸いテーブルで、折りたためる短い脚が付いていました。このちゃぶ台が登場したのは、明治時代になってからのことです。それまでは、家族一人一人が小さい自分の膳をもっていて、その上に食事の用意をしていました。お茶を注ぐのに用いられた急須が、一般の家庭で使われようになったのも、明治時代からだといわれています。江戸時代には、茶葉を煮出して飲むのが一般的だったようです。

戦争とお茶
 太平洋戦争で、ひどい食糧不足に陥ってしまった日本は、茶畑をほかの農作物をつくる畑へと、次々に変えて行きました。
終戦後、日本を占領下に置いたGHQは、日本に食料を放出するかわりにお茶を納めることを要求しました。ここから日本のお茶栽培は再出発したのです。



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